小説「アドバルーン」の主人公・十吉が少年時代を過ごした高津神社南正門の表門筋。小説では「家を出て、表門の鳥居をくぐると、もう高津表門筋の坂道、その坂道を登りつめた南側に「かにどん」というぜんざい屋があったことはもう知っている人は殆どいないでしょう」と表現されています。現在はあまり人通りの無い、中規模のアパートと寺院が共存する比較的静かな住宅地です。興味深いのはこの「かにどん」の存在です。二つ井戸に「かにどん」の分店があったと小説でも出ておりますが、偶然東京駅構内につい最近まで大阪うどん「二つ井戸・かにどん」という店があったとの情報が入ってきました。ぜんざい屋がうどん屋に変わっているのですが、この「二つ井戸」繋がりが気になります。要調査です。
高津神社は高津の宮の跡地であるという説もありますが、考古学的実証はされていないとのことです。仁徳天皇はこの高津の宮の見晴台より浪速の街を眺められ、かまどから煙が立たない事から、税の免除を決断されたとの有名な逸話の舞台でもあります。近世では落語「高津の富くじ」で有名です。今でも節分の日に江戸時代の富くじを復元したイベントがあるようです。すぐ近くの生国魂神社の「彦八まつり」といい、高津神社の「富くじ」といい上町台地の神様は落語がお好きなようです。
「アドバルーン」の主人公十吉が落語家の父親「円団治」と少年時代をすごす舞台となるしもたや。作品中の表現を辿って行くとこの家に行き当たります。「高津神社の裏門をくぐると、すぐ梅ノ木橋という橋があります。といっても子供の足で二足か三足、大阪で一番短いその橋を渡って、すぐ掛かりの小奇麗なしもたやが今日から暮す家だと、おきみ婆さんに教えられたときは胸がおどったが、しかしそこには既に浜子という継母がいた」と表現されております。今も梅ノ木橋のたもとにあるこの住宅、もしくはこの住宅の前身がモデルとなったことは確かなようです。織田作之助自身、このすぐ南の生国魂神社近くにて少年時代を過ごしておりますので、当然この高津神社の境内も走り回っていたのでしょう。自身のノスラルジックな記憶の中に生き生きとした生命を吹き込んでいます。
これが「子供の足で二足か三足、大阪で一番短いというその橋・・・」梅ノ木橋です。小説上では梅ノ木橋ですが、実際の欄干には「梅の橋」と彫られております。このあたりには現在でも「梅ヶ辻」とか「新梅屋敷」と言った地名の名残があるところからも、梅の名所であったようです。ちなみに天神様の梅鉢の紋は実は高津の梅から来ているとのことです。知らない事が多いものです。ついでにもう一つ、小説には表現されておりませんが、この梅ノ木橋の下を流れていた梅川(※現在は枯れております)は実は道頓堀川の源流だったのです。上町台地の湧き水が川となりこの橋の下を通り、二つ井戸のあたりから現在の道頓堀川に注いでいたようです。なんと優雅な時代があったのでしょう!
小説では高津神社の生家から継母浜子に連れられ、道頓堀の夜店を見に行くくだりは良き時代の大阪ガイド本として秀逸です。少し抜粋してみます。「高津表門筋の坂を降りましたが、その降りてゆく道は、燈明の灯りが道から見える寺があったり、そしてその白壁があったり、曲がり角の間から生国魂神社の北門が見えたり、入り口に地蔵を祀っている露地があったり、金燈篭を売る店があったり、稲荷を祀る時の巻物をくわえた石の狐を売る店があったり、蓑虫の巣でつくった銭入れを売る店があったり、赤い硝子の軒燈に屋号を入れた料理仕出屋があったり、間口の広い油屋があったり、赤い暖簾の隙間から、裸の人が見える銭湯があったり、ちょうど大阪の高台の街である上町と、船場の島之内である下町をつなぐ坂であるだけに、寺町の回顧的な静けさと、ごみごみした市井の賑やかさがごっちゃになったような趣がありました。」何気ないですが街に対する愛情の溢れる文章です。この写真のような昭和の飯屋が残っておりました。作之助も立ち寄ったのか?
表門筋を降りて松屋町筋を越したあたりに現存する「しもた屋の医院」小説は戦争中に書かれ、戦後まもなくして出版されたものでありますから、当然当時は存在しなかったのでしょう。しかしなぜか「織田作之助の気配」を感じてしまうのは私だけでしょうか?
高津表門筋から北へ折れて、二つ井戸の通へ向かう途中,市場のあったと想定される界隈です。「坂を降りて北へ折れると、市場で、日覆を屋根の下にたぐり寄せた生臭い匂いのする軒先で、もう店を仕舞うたらしい若者が、猿股一つの裸に鈍い軒燈の光をあびながら将棋をしていましたが、浜子を見ると、どこ行きでンねンと声をかけてきました」現在は市場らしきものは見当たりませんが、この写真のような昭和の建物がポツリポツリと残っております。
この角を左に曲がりますと「二つ井戸」です。
「市場の中は狭くて暗かったが、そこを抜けて西へ折れると、道はぱっとひらけて、明るく、二つ井戸」なんかアドマチック天国のキャッチフレーズのようですが原文です。「オットセイの黒ずんだ肉を売る店があったり、猿の頭蓋骨や竜のおとし児の黒焼きを売る黒焼屋があったり、ゲンノショウコやドクダミを売る薬屋があったり、薬屋の多いところだと思っていると、物差しやハカリを売る店が何軒もあったり、岩おこし屋の軒先に井戸が二つあったり・・・・・・・」と続きます。この二つ井戸薬局はその名残のようです。仁丹の看板など時代を感じます。しかし残念な事に、この由緒ある「二つ井戸」の地名は革新好みの行政の手により昭和の50年代に葬り去られてしまいました。現在は道頓堀東と言うあいまいな地名となっております。また小説中にあります岩おこし屋は「二つ井戸津の清」です。ここも店の前の名物「二つ井戸」とともに堺へ転居してしまっております。残念!
現在「ディープアジア」となりつつある島之内~二つ井戸に現存する「下大和橋」です。全景を撮影するのもはばかられる状況です。「そして下大和橋のたもとの、落ち込んだように軒の低い小さな家では三色ういろを売っていて、その向いの蒲鉾屋では、売れ残りの白い半平が水に浮いていた。」まさしく水と密接な生活感が行間から感じられます。現在の大阪の街づくりの最大の失敗は川を無視したことに尽きるようです。現在の川辺の建物はすべて川を背にし、上を高速が走る風景を豊臣秀吉はあきれているでしょう!
「物差しやハカリを売る店が何軒もあったり・・・・・・」との道具屋の名残がここにありました。看板もロゴもなかなかの時代イメージです。この「二つ井戸」の地名の由来は、秀吉の時代釣鐘を鋳造するのに使う良質の井戸水がこの地にあったとのことです。多分上町台地の伏流水がこの辺りで水脈となっていたのでしょう。
道具屋が多かったのは、長町と呼ばれた時代より職人の町であった事が理由の一つであろうと想像されます。※長町:今の道頓堀より南から堺筋沿いに日本橋5丁目あたりまで永く南北に伸びていた町。大阪城の普請や道頓堀等の河川の掘削に従事した職人たちの町であったとの事です。現在の黒門市場はそうした職人のための市場がスタートであります。
ちょうど文楽座の北側に当たる道頓堀川を背にしたしもた屋です。小説では「芋を売る店があり、小間物屋があり、呉服屋があった。まからんやという帯専門のその店の前で、浜子は永いこと立っていました」この呉服屋がモデルかもしれません。一等地でありながら現在中途半端に開発が止まってしまっているこの地区は、なにか街のゴミ箱化していきそうな雰囲気があります。水辺を取り戻すなり、緑のある公園を計画するなり、ともかく人が安心して回遊できる街づくりを真剣に行うべきでしょう!今は夜は危険で通れません!
「そして前方の道頓堀の灯をながめて、今通って来た二つ井戸よりもなお明るいあんな世界がこの世にあったのかと、もうまるで狐につままれたような想いがし、もし浜子が連れて行ってくれなければ、隙を見てかけだして行って、あの光の洪水の中へ飛び込もうと思いながら、まからんやの前で立ち停っている浜子の動き出すのを待っていると、浜子はやがてまた歩き出したので、いそいそとその傍について堺筋の電車道を越えた途端、もう道頓堀の明るさはあっという間に私の躯をさらって、わたしはぼうっとなってしまった」現代はまた違う意味においてこの品の無い看板の洪水に、わたしはぼうっとなってしまった!
道頓堀では「くいだおれ」の人形とともに有名な「かに道楽」の看板です。この種の看板を許すのは世界で、香港とラスベガスぐらいでしょう。表現も自由である代わり、見たくないという権利もそろそろ日本人も考える必要がありそうです。街は商業や一企業のためのものでは無いでしょう!「弁天座、朝日座、角座・・・・・。そしてもう少し行くと、中座、浪花座と東より順に五座の、当時はゆっくりと仰ぎ見てたのしんだ程看板が見られたわけだったが・・・・・・」とありやはり当時から看板のメッカであったようですが?
この写真の堺筋より向こう側に見えるのが、旧の「二つ井戸」、手前が道頓堀です。似つかわしくないアーチです。こうして織田作之助の小説「アドバルーン」の一部をたどっても、現在大阪の名所と言われている中心街ほど精神的荒廃化が進んでいる事がお分かりになると思います。人が集まるところは儲かるところであり、そこには一攫千金をねらう商業が「ハイエナ」のように集まってきます。そして獲物を食い尽くした後は・・・・・・・オモロイ大阪はこんなところには存在しないようです。
この地図では明確に「二つ井戸町」・「下大和橋」が明記されております。また名称は記入されておりませんが「高津神社表門筋」が読み取れます。しかしすでに大正13年には高津神社境内より流れ出ていた梅ノ木橋の下を流れる「梅川」はすでに見当たりません。また下大和橋からすぐ西に「高津入堀川」というのが南北に流れ御蔵跡町に繋がっております。この水路を通って物資が御蔵跡まで運ばれたのでしょう。名前の由来が良く理解できます。
この高津入堀川も東横堀川も西横堀川も、現在の阪神高速道路の路線とほぼ同一ルートです。土地の確保が安易な方法で、結果大阪人は多くの水辺を失い、高速道路を手に入れたのです。将来に何を残すのか、もう一度考えたいものです。