関西の落語家が思い思いに出店している屋台です。古典落語のネタにちなんだ笑福亭仁鶴の「古道具屋」や「飴や」「代書屋」など一味違った趣の縁日です。
ここでは落語が大阪の庶民の生活の中に見事に浸透している姿を見ることが出来ます。
天満の繁昌亭といい生国さんの彦八まつりといい近年特に上方落語は元気でおもろいです。
地車囃子と書いて「だんじりばやし」と読みます。文字が示すようにもともと、だんじりを曳航する際に演奏される祭り囃子のことです。大阪の泉州を中心とした南部には現在も祭りで地車を曳く風習が残っており、その中で祭り囃子が演奏されておりますが、地車曳行の風習が何かの理由にて途絶えた大阪の中部・北部では、独立した音楽として発展し、舞台音楽としてひとつのジャンルを確立したものです。
ご存知のように現在では寄席の出囃子や天神祭りの囃子「コンコンチキチンコンチキチン」に残っております。この天神祭りの囃子はは一説には豊臣秀吉の大阪城築城の際の応援囃子であったとの記録もあり、地車囃子ひとつ見ても奥が深く謎の多い、まさしく「おもろい大阪」です。
大阪の住吉大社に現存する「住吉踊り」とは趣を異にします。
しかしルーツとしてはどうやら住吉大社の御田植神事のようで、これが願人坊主が大道芸として江戸方面に広め、後に「かっぽれ」「万作踊り」などの舞台芸として定着したもののようです。現在でも東京の雷門助六の当たり芸となっています。
また時代劇などに登場する、宴席を織り上げる「幇間」の座敷芸などもこの流れを汲んでいるようです。ちなみに幇間は通称「太鼓持ち」と呼ばれ、その語源は豊臣秀吉のお伽衆であった曾呂利新左衛門が太閤秀吉を「持ち上げ」たところから、「太閤持ち」となったとの事です。
余談ですがギャグのような面白い話です。
生国魂神社の境内に建立されている井原西鶴の坐像。どことなく落語家風です。西鶴は大阪の裕福な町人の出といわれており、一説には寛永19年(1642年)大阪鎗屋町の生まれとありますが正確な資料は存在しません。西山宗因に俳諧を師事しその縁にて「西」の字を譲り受けたと伝わっております。
当時流行していた連続して即興で多くの句を読む「矢数俳諧」にて、一昼夜23500句という途方もない記録を打ち立てた事は記録に残っており、その舞台がここ生玉さんでありました。
今までの静かな俳諧の世界とは極端に異なるイベント俳諧であったため、世間からは賛否両論があったようで、当時はハイカラな異端を意味する「阿蘭陀流」とも呼ばれたようです。
いつの時代も世間は異端児には冷たいもんです。
生玉さん境内にある、浄瑠璃関係の功労者を祭った神社です。当然近松門左衛門・竹本義太夫も祭られております。近松門左衛門は本名杉森信盛、越前の生まれ(1653~1725)、竹本座に所属し、浄瑠璃の作家として活躍、後には歌舞伎の作品も残しております。代表作は「曽根崎心中」「心中天網島」「国性爺合戦」など心中物、世話物が得意でありました。
これらの心中物の大ヒットにより心中が流行し、これを危惧した当時の幕府が近松の作品の上演を禁止したと伝わっております。くしくもその翌年近松門左衛門は尼崎にて没しています。当時としてはやはり内容的に相当エキセントリックなものであったのでしょう。彼も関西人らしい屈折したヒーローです。
ちなみに「曽根崎心中」の出だしの舞台はここ生玉神社の境内です。
生玉さん境内にある米澤彦八の碑です。彦八は江戸時代中期の芸人で「豊笑堂」と号して大道芸人から身を起こし、生玉さんの境内にあった芝居小屋にて活躍した落語家の祖です。彼の芸は「当世仕方物真似」という現在のコロッケの物真似のような芸であったようです。
それにしてもこの生玉さんは「矢数俳諧」の井原西鶴といい、米澤彦八の芝居小屋といい庶民に解放された「おもろい大阪」を代表する神社です。
※米澤彦八は初代、2代目と数人いたとの記録があります。